ひとことMEMO
法語の所感をここに残します
2025年

近年「モノ消費よりコト消費」という言葉を耳にします
「物(モノ)はネットでどこからでも買えるが、体験(コト)はその場でしかできない」「消費のあり方が爆買いから文化体験を求めるようになった」ことなどが考えられます
しかし、例えば旅行などのコト消費も、家に帰ると「やっぱり家が一番」と、コトで得た喜びが持続できないのが私たちです
中国が前漢の時代に鄧通という者が、文帝の寵愛を得て、庫(くら)を満たすだけの巨万の富を築いた
ところが、文帝の死後に景帝の時代になると、一切の財産を没収されて遂に餓死した
親鸞聖人が七祖の一人と仰いだ曇鸞大師は、この故事を引き合いにして、いつまでも得たことや在ることが持続できないことを「虚しさ」として説かれました
その虚しさに対し、宗祖は「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」と、本願念仏の仏道の歩みを勧めて下さいます

象に追われた旅人が身を隠すために、とっさに井戸に入って垂れた木の根にぶら下がった
見上げると、その根を黒と白のネズミが交互にかじっている
下を見れば、毒龍が底で男が落ちてくるのを待っている
恐怖に怯えていると、木の根から口に甘い蜜が滴り落ち、その甘美さに現実を忘れ、根を揺すって蜜を落とそうとする
『仏説譬喩経』より
象は時間(無常)、木の根は寿命を表し、白と黒の鼠は昼と夜、竜は死、蜜は欲望を譬(たと)えているそうです
生死(しょうじ)の問題に目を逸らして、世の中の楽しみに現(うつつ)を抜かす私たち
その間にもまるで鼠が根を齧るように微々として、しかし確実に残された時間は削られていることを教えてくれます
生死出ずべき道を教えてくれるのが仏法です
法座のご案内をしても「いずれ」「そのうち」という言葉をよく耳にしますが、「仏法には明日(という言葉)はない」とよく言っていた同朋の言葉が思い返されます
2024年

葭(ヨシ…善)も
葦(アシ…悪)も
私につけられた二つの名前です
どちらの名前で呼ばれてもハイと答えます
善のさかえる世の中は
悪のはびこる世の中です
私にはよくわかる理屈ですが
人は首を傾げることでしょう
吉野弘「風流譚」
高速道路で渋滞に遭い、本線をのろのろ走っていると合流車線から車がやってきた
合流を促すために停車すると、その車は前に入って来た
会釈もサンキューハザードも何もないままに…
こっちは善いことしてやったのに…何だアイツは!とムッとした
ただ、側から見れば「車が合流している」それだけのこと
自分を善に立てれば立てるほど、悪もまた立ててしまうのが世の中なのだとヨシ(アシ)が教えてくれている

BS放送(衛星放送)を観ていたある日、地上波よりも健康食品のCMが多いことに気付いた
BS視聴者層が健康志向なのだろうか
「健康でありたい」という視聴者側の願いを企業側が汲んで、視聴者の購買意欲を掻き立てている
しかし、その願いがいつの間にか「健康でなければならない」という義務感にすり替わってないだろうか
老病死するのが身の事実、縁が揃えばその義務感と相反することも往々にしてある
そうなった時に「健康でない私なんて…」と思い通りにならない自分を見捨てていくことになりはしないか
思い通りにならないとは薄々感じつつ、日課の乳酸菌飲料を飲み続けることは今更止められない

老若男女関わらず、幾つになっても縁が整えば、初めての試みや不慣れなことをしなければならないことがある
この法語は、以前、新任研修で儀式作法の講師が述べたもの
ー新たな挑戦である以上、拙いことは仕方ない
しかし、上手くできないからと雑になってはいけないー
そういう思いが込められた言葉だと受けた
慣れが丁寧さを忘れ去れさせる頃には、また違った味わいが生まれる
あれから幾らかの時間を経たが、折に触れて思い出す
「俺、良いこと言ったな」と言わんばかりのしたり顔も一緒に

受験時期のある日、小学生の子供がいるお母さんから先生への相談がラジオ越しに聞こえてきました
「子供の宿題の採点をしていると、マルを付けているうちはいいのだけど、間違っている箇所にバツを付ける度に子供は不機嫌な顔をする。注意しても全く直す気配がないのですが、どうしたら良いでしょうか」と
その先生は「お子さんの前に少し大きな鏡を置いてご覧なさい。バツが付く度にお母さんにどんな顔をしているか自分で分かるようになる」とアドバイス
どの家にも何枚も鏡があるはずです
鏡に映った自分の姿を見る度に、髪の乱れを直したり、口に付いたソースに気付いたりと、自分の至らない箇所を探しているはずです
お経の教えは、亡き人ではなくそれを見聞きしている私が映される鏡です
それも自分の至らぬ点を教えてくれる鏡として

「子供向け」という言葉は、存外当てにならないかもしれません
怪獣映画の代名詞であるゴジラの新作「ゴジラ-1.0」は戦中から戦後を舞台とした映画でしたが、怪獣映画である以上に主人公の「胸の傷」と「生」との葛藤を描いた作品でした
『仏説無量寿経』に「身自当之 無有代者(身自らこれをうくるに、だれも代わることなし)」という文言があります。これを「誰にも代わってもらうことのできない悲しみと、本来代わる必要のない尊い存在である」ことと教わりました
今日も大小多くの悲しみが溢れていますが、そこに留まらせずに歩みを促そうとする言葉ではないでしょうか

A「部屋の隅にゴミが落ちているよ。ちゃんと掃除した?」
B「毎日掃除しているよ。あなたが拾えば済む話でしょう?」
自分が正しい(間違っていない)と思い込んでいる人ばかりが集まるとどうなるでしょうか
集合単位が「家」ならケンカ程度で済みますが、これが「国家」単位になるとどうなっていくでしょうか
また、このような家庭もあるでしょう
C「このゴミは、昨日私が出したゴミかな、ごめんね」
D「こちらこそ、隅々まで目が行き届きませんでした」