受験時期のある日、小学生の子供がいるお母さんから先生への相談がラジオ越しに聞こえてきました。
「子供の宿題の採点をしていると、マルを付けているうちはいいのだけど、間違っている箇所にバツを付ける度に子供は不機嫌な顔をする。注意しても全く直す気配がないのですが、どうしたら良いでしょうか」と。

その先生は「お子さんの前に少し大きな鏡を置いてご覧なさい。バツが付く度にお母さんにどんな顔をしているか自分で分かるようになる」とアドバイス。

どの家にも何枚も鏡があるはずです。
鏡に映った自分の姿を見る度に、髪の乱れを直したり、口に付いたソースに気付いたりと、自分の至らない箇所を探しているはずです。

お経の教えは、亡き人ではなくそれを見聞きしている私が映される鏡です。
それも自分の至らぬ点を教えてくれる鏡として。

「子供向け」という言葉は、存外当てにならないかもしれません。

怪獣映画の代名詞であるゴジラの新作「ゴジラ-1.0」は戦中から戦後を舞台とした映画でしたが、怪獣映画である以上に主人公の「胸の傷」と「生」との葛藤を描いた作品でした。

『仏説無量寿経』に「身自当之 無有代者(身自らこれをうくるに、だれも代わることなし)」という文言があります。これを「誰にも代わってもらうことのできない悲しみと、本来代わる必要のない尊い存在である」ことと教わりました。

今日も大小多くの悲しみが溢れていますが、そこに留まらせずに歩みを促そうとする言葉ではないでしょうか

A「部屋の隅にゴミが落ちているよ。ちゃんと掃除した?」
B「毎日掃除しているよ。あなたが拾えば済む話でしょう?」

自分が正しい(間違っていない)と思い込んでいる人ばかりが集まるとどうなるでしょうか。
集合単位が「家」ならケンカ程度で済みますが、これが「国家」単位になるとどうなっていくでしょうか。

また、このような家庭もあるでしょう。 
C「このゴミは、昨日私が出したゴミかな、ごめんね」
D「こちらこそ、隅々まで目が行き届きませんでした」

2023年

2022年

2021年

2020年

2019年

2018年

2017年

2016年

2015年